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TERPSICHORE(テルプシコール)とは?

TERPSICHORE(テルプシコール)

ギリシア神話の女神で、ゼウスとムネーモシュネー(記憶)の間に生まれた九人のムーサ(ミューズ)の一人と云われ、合唱隊の叙情詩と舞踊を司る女神と云われている。初めて裸足で踊ったという伝説の舞踊家、イサドラ・ダンカンが『テルプシコールに捧ぐ』という作品を踊った事も有名。1981年に設立したこのスタジオを「テルプシコール」(フランス読み)と命名したのは、舞踊評論家の故・市川雅氏。

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舞台批評

舞踏新人シリーズ第41弾園田 游『ごめんください』2012.11.13

5月のテルプシコール公演を観て 文・竹重伸一

[テルプシコール企画]舞踏新人シリーズ第43弾

石本華江『WHB?』 (5月11日)

奥村万琵・吉村広野『頌詩』*構成:大竹宥煕 (5月12日)

石本華江『WHB?』 (5月11日)
 前回の舞踏家としての初めてのソロ『半分少女』は師、和栗由紀夫の振付によるものだったが今回は自作である。先ずその挑戦を評価したい。『半分少女』は和栗のお人形でしかなく、石本華江個人の息遣いがどこにも見えなかったからである。そしてもう一つ嬉しかったのは冒頭の舞台中央奥の壁際に立ち尽くしたシーンを観て、この人の肉体の中には静かな沈黙する時間が間違いなく流れていることを感じられたことである。ただ今回はその時間はそのシーン以後継続・発展することがなく、孤立した弱い記憶としてしか残らなかったのが残念だった。全体を貫く幹としてのモチーフが曖昧なためにシーン同士の内的結び付きが弱く、ラストでの冒頭シーンの回帰も時間の円環的な膨らみを齎すことができず段取りにしか見えて来なかったのである。直線的ではない円環的な時間を表現するためには今の石本は「人間的・社会的な自我」に止まり過ぎている。つまり恐らく今まで外から与えられるフォルムとしてしか舞踏を学んでいないために自分の肉体の内部から発する「人間を超えたもの」の声に耳を傾ける即興の稽古が不足しているのではないかと思われる。

 タイトルの『WHB?』とは「What the Hell is Butoh?」の略だということである。訳すと「舞踏なんて糞食らえ?」という意味になる。こうしたやや斜に構えたタイトルではなく、次回はタイトル創りからしっかりと自分の肉体とモチーフに正面から向き合ってもらいたいと思う。

奥村万琵・吉村広野『頌詩』*構成:大竹宥煕 (5月12日)
 この舞台は全体は師、大竹宥煕作の奥村万琵・吉村広野のデュオ作品という体裁を取っていて、最後はキリスト役の吉村とその恋人役の奥村による聖なる結婚という宗教的なカタルシスで幕を閉じるという構成になっている。だが実際は奥村・吉村それぞれの二度ずつの長いソロが作品のほとんどを占めていて、二人のソロ公演としても充実した内容を持っているので、この舞踏新人シリーズの企画趣旨に鑑み、敢えて作品論には深入りせずそのように論じてみたいと思う。なぜなら本来は二人の自作自演のソロ公演として参加すべきだったと思うからである。次回は是非それに挑戦して欲しい。

 吉村の踊りは背筋が常にきちんと伸びた凛とした立ち姿が印象的で強い緊張感が漲ってはいるものの、ムーブメントの軌跡が直線的で肉体の空間性・メタモルフォーゼがないために、踊りというよりは武道の演武を観ているような気分になる。自我が皮膚の輪郭に納まり過ぎていて、皮膚の外、つまり空間へと溶けて行かない。言語で肉体を縛り、肉体を自我の占有物にしてしまうのではなく、肉体をもっと自由に遊ばせて異物としての他者を受け入れなければならないと思う。

 一方、奥村の最初のソロには新鮮な感覚を覚えた。切れ間なく流れるニーナ・シモンの『奇妙な果実』など内外のポピュラーソングの名曲の海に溺れてしまうことなく、一つ一つの曲を皮膚の中に入れて、自分の肉体の内部から浮かび上がって来るものを踊りの形にしていたと思う。それは絶望や悲しみから恋の歓びまで幅広い感情に満たされ、それが皮膚から熱病のように発して空間の隙間を通って私に伝わって来た。そしてその底にはいつもエロスの止み難い情火が燃え盛っているように感じた。ただ自作ではないためか後半のソロにはそうした奥村固有の皮膚の熱が感じられなかったのが残念だった。

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