サイトマップ
HOME > 舞台批評
ギリシア神話の女神で、ゼウスとムネーモシュネー(記憶)の間に生まれた九人のムーサ(ミューズ)の一人と云われ、合唱隊の叙情詩と舞踊を司る女神と云われている。初めて裸足で踊ったという伝説の舞踊家、イサドラ・ダンカンが『テルプシコールに捧ぐ』という作品を踊った事も有名。1981年に設立したこのスタジオを「テルプシコール」(フランス読み)と命名したのは、舞踊評論家の故・市川雅氏。
11月のテルプシコール公演を観て(2011年)文・竹重伸一
[テルプシコール企画]舞踏新人シリーズ第41弾
園田游『ごめんください』(11月13日)
59歳の新人とは全く舞踏的で素晴らしいと思う。劇場に入るとテルプシコールの従来の対面式の客席は取り払われて、円形の舞台の周囲を客席が囲む親密な空間が作られていた。暗転するとまさにタイトル通り「ごめんください」とばかりに園田游は4人の男たちに担ぎ上げられて舞台に登場し、床に横たえられた。ツン一丁のその痩せ細った肉体は驚くほど生命感を失っていて、まさに枯木のようでも死体のようでもある。磔刑にされたキリストの肉体か? 前半の30分はこの肉体の素材感だけで勝負するかのようにほとんど横たわったままの緊張感ある緩慢な動きだけに終始した。舞踏家を名乗るためには先ず肉体そのものが思想にまで高まっていなければならないとしたら、園田はその条件は十分に満たしている。思うにその負の電荷に浸潤された肉体はそれ自体が生産性を唯一の価値とした現代社会に対する無言の強い批判である。ただ照明が不必要に暗過ぎてその稀な肉体と表情の変化を存分に味わうことができなかったのが残念だが。
自ら5分の休息を宣言した後の後半はベージュのスリップを身に着け瞼と唇に紅を差した姿で現れた。1時間、特に構成もなく時に観客と問答したり、木の枝を渡してはまた戻してもらったりという行為も交えながらひたすら終わりなどないかのように即興的に踊り続ける。公演の終わりは単に体力の限界を意味したに過ぎなかった。園田は肉体に彼固有の時間軸・テンポ・リズムを持っている。それは近代の直線的な時間ではなく、舞台の形と重なるようにゆったりと循環する古代的な時間である。だが決してただまったりしているだけではなく、その女装した肉体は時にエロティシズムが突き上げてどんどん捩れて歪んでいく。歩くのも息絶え絶えになって呻くと床に倒れ、しばらくするとまた徐々に起き上がる。しかし底には絶えず茶目っ気溢れる道化の遊び心を持って。そうしたいわば目的のない子供の寄り道の連続のような踊りは踊り手と観客の区別が曖昧な円形の共同体的舞台と上手くマッチしていて、長い時間だったにもかかわらず繰り返される漣のような感銘が持続したのである。前後半を通して舞台袖にいたベース奏者の前田隆があたかも間欠泉のように効果的に踊りと絡んだことも忘れてはならない。
園田はどこか聖なる無一物者を思わせる。前半がその悲劇的な面で後半が喜劇的な面である。そして漂々とした外見に似合わず今回の舞台で公演形式の問題も含めてかなり意識的に近代という時代の価値観・美学に揺さぶりをかけてもいる。それは今回に限り成功を収めたと言って良いのだが、一方でその前近代的な円形舞台ではやはり表現に限界があることも気付かされた。舞台に奥行きがないため空間と肉体の関係のダイナミズムが感じられないのはやはり決定的な物足りなさである。次の公演では是非近代的なプロセニアム空間での表現に挑戦して欲しい。
11月のテルプシコール公演を観て(2011年)
文・竹重伸一
[テルプシコール企画]舞踏新人シリーズ第41弾
園田游『ごめんください』(11月13日)
59歳の新人とは全く舞踏的で素晴らしいと思う。劇場に入るとテルプシコールの従来の対面式の客席は取り払われて、円形の舞台の周囲を客席が囲む親密な空間が作られていた。暗転するとまさにタイトル通り「ごめんください」とばかりに園田游は4人の男たちに担ぎ上げられて舞台に登場し、床に横たえられた。ツン一丁のその痩せ細った肉体は驚くほど生命感を失っていて、まさに枯木のようでも死体のようでもある。磔刑にされたキリストの肉体か? 前半の30分はこの肉体の素材感だけで勝負するかのようにほとんど横たわったままの緊張感ある緩慢な動きだけに終始した。舞踏家を名乗るためには先ず肉体そのものが思想にまで高まっていなければならないとしたら、園田はその条件は十分に満たしている。思うにその負の電荷に浸潤された肉体はそれ自体が生産性を唯一の価値とした現代社会に対する無言の強い批判である。ただ照明が不必要に暗過ぎてその稀な肉体と表情の変化を存分に味わうことができなかったのが残念だが。
自ら5分の休息を宣言した後の後半はベージュのスリップを身に着け瞼と唇に紅を差した姿で現れた。1時間、特に構成もなく時に観客と問答したり、木の枝を渡してはまた戻してもらったりという行為も交えながらひたすら終わりなどないかのように即興的に踊り続ける。公演の終わりは単に体力の限界を意味したに過ぎなかった。園田は肉体に彼固有の時間軸・テンポ・リズムを持っている。それは近代の直線的な時間ではなく、舞台の形と重なるようにゆったりと循環する古代的な時間である。だが決してただまったりしているだけではなく、その女装した肉体は時にエロティシズムが突き上げてどんどん捩れて歪んでいく。歩くのも息絶え絶えになって呻くと床に倒れ、しばらくするとまた徐々に起き上がる。しかし底には絶えず茶目っ気溢れる道化の遊び心を持って。そうしたいわば目的のない子供の寄り道の連続のような踊りは踊り手と観客の区別が曖昧な円形の共同体的舞台と上手くマッチしていて、長い時間だったにもかかわらず繰り返される漣のような感銘が持続したのである。前後半を通して舞台袖にいたベース奏者の前田隆があたかも間欠泉のように効果的に踊りと絡んだことも忘れてはならない。
園田はどこか聖なる無一物者を思わせる。前半がその悲劇的な面で後半が喜劇的な面である。そして漂々とした外見に似合わず今回の舞台で公演形式の問題も含めてかなり意識的に近代という時代の価値観・美学に揺さぶりをかけてもいる。それは今回に限り成功を収めたと言って良いのだが、一方でその前近代的な円形舞台ではやはり表現に限界があることも気付かされた。舞台に奥行きがないため空間と肉体の関係のダイナミズムが感じられないのはやはり決定的な物足りなさである。次の公演では是非近代的なプロセニアム空間での表現に挑戦して欲しい。