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ギリシア神話の女神で、ゼウスとムネーモシュネー(記憶)の間に生まれた九人のムーサ(ミューズ)の一人と云われ、合唱隊の叙情詩と舞踊を司る女神と云われている。初めて裸足で踊ったという伝説の舞踊家、イサドラ・ダンカンが『テルプシコールに捧ぐ』という作品を踊った事も有名。1981年に設立したこのスタジオを「テルプシコール」(フランス読み)と命名したのは、舞踊評論家の故・市川雅氏。
小林嵯峨「幻の字の子供」文・國吉和子
小林嵯峨は1969年にアスベスト館に入門し、土方巽に師事した。スペースカプセル公演から幻獣社、白桃房公演に1974年まで参加し、芦川羊子、仁村桃子らとともに土方作品の主要なパートを踊った。その間、並行してショーダンサーとして地方巡業もした。小林が白桃房から独立した後、土方は芦川という素材で独自な技法を完成させることになるのだが、小林はその直前に土方から独立している。しかし土方がその技法を具体化してゆく草創期の踊り手の一人であったことは重要で、小林は1970年代初頭のいわば土方の技法が生成される現場を体験した、今や数少なくなってしまった現役の舞踏家といえるだろう。 土方の暗黒舞踏を担った芦川と小林、この二人の体形は対照的だ。小柄で下半身が強靭な芦川は、腰を深く落とし体を小さく折りたたむ踊りを得意としたのに対して、小林は手足も長く、立ち姿に妖艶な魅力があった。一時期、土方のエレガンスは小林が受け継いでいるとまでいわれたものだった。土方の舞踏も担い手が変わればまた、異なった表情をみせる。そしてあれから半世紀も経った現在、土方の踊りは小林の中でどのように伝えられているのだろうか。今回の公演は、暗黒舞踏の基本を改めて確認する作業も含めて、小林がこれまで続けてきた舞踏の成果だと思う。舞台では1970年頃の写真スライドを劇場奥の壁に時折投影するので懐古的な視線も許容され、当時のわけのわからぬ熱気のようなものを体験した世代としては、客観的に見ることが正直、難しかったといわなければならないのだが、こうした懐かしさを凌駕してなお説得力があったのは、小林の体に刻印された土方の技術だった。 冒頭、アートビレッジ公演(1970年)当時のスライドが正面の壁に映し出されると、舞台は無音の内に始まる。ざっくりとした衣裳で板付いたまま、小林は上体、特に頭から肩にかけていくつかの角度を示す。口を開け呆けた状態で、後頭部から首筋、背骨へと流れる線がくっきりと強調されている。顎を緩め、胸を退いて、腹を少し突き出す体勢ですでに腰は落ちている。暗黒舞踏特有の姿勢だが、小林の立ち姿は常に微動しているように見える。それは砂が少しずつ流れ落ちて地形を変える砂漠の風景を連想させる。その後も腕を高く上げる、左右に素早くスライドする、両脚の間にガクンと急に腰を深く落とす、床に倒れて這う等など明確で大胆な動きもみられるものの、こうした一つ一つの動きが何を意味しているか、私にはわからない。しかし一連の動きはなにか体の外にある事柄を表現するために工夫された動きというより、体自体がほかならぬその体に要求されて数珠繋ぎにされているとでもいうべきか。小林はこうした内側からの要求に――その要求の厳密さに全身で忠実であろうとしている。その姿が子供のように無心なのだ。 続いて音が入ってからのシーンでは床を意識した動きや、顔の表情を大きく変化させ、膝を抱え込んで硬く蹲るなど、さまざまな姿態が続いた。かつて土方の指示で生まれた様々な踊り(少女、老婆、貴婦人、狂女など)を、小林は改めて今、辿り踊り直しているのかもしれない。ただ、それらは形骸化した形ではない。今だからこそ生き直すことができるといった熱気のようなものを感じたのは、私の主観にすぎる見方だろうか。幼さと無心、妖しさとエロス、こうした様相が、静かに変貌を続ける姿態をとおして確実に浮彫りにされてゆく。しかも全体がどこか不安定なのだ。言い換えれば、個々の動きの意味というより、全身を支配している不安定な変貌そのものに目が離せないのだ。散漫さに集中している、といった矛盾した言い方しかできない。 続くシーンで小林は髪を解き、赤い着物を前後ろに着て、女の面を後ろ面につけて踊った。背面をあたかも正面のように踊るトリッキーなダンスだ。ヨーロッパ中世の疫病流行期に踊られたダンスを連想した。背後を正面として踊るグロテスクな動きが、病に侵された人の仕草を想起させたとも伝えられるダンス。しかし今、小林の背面ダンスは体の安定感を自ら壊し、体の各部分を通常の機能から一気に解き放つ。差し出された腹部のようにみえる臀部は、ベルメールの関節人形のエロスに変貌する。舞踊家が最も安定した体勢といえば見所に正面を示すこと――古典舞踊の場合を考えるとよくわかるのだが、体の正面を示すことによって、中心が生まれ体全体が安定する。しかし小林は体の正面性を一気に揶揄してしまう。後ろ面の仕掛けもまた、安定領域から外れているのだ。 さらに小林は胸に真綿をつけた少女に変身、ロドリーゴの「アランフェス協奏曲」で現れ、突然下手の台に乗ると、ロック調の音楽で立膝の姐御風情となり、剣菱の一升瓶をラッパ飲みして酒を噴き上げる。ヤクザで潔い、当時の新宿の雰囲気そのままの演技だ。後半、衝撃的だったのは裸の上半身に赤い塗料で喉元からまっすぐ垂直線を引かれて踊るシーン。体の中心線を改めて強調するかのようなこの操作は、まるで赤い棒を飲み込んだかのようだし、小林の体は喉を押さえられて宙づりにされたかのようにも見える。これは土方特有の、言葉の比喩をそのまま体に写し込む手法のひとつなのかもしれない。 これらの姿態はいずれも断片的で唐突に提示される。一貫したイメージの流れとか、ストーリーが読み取れるものではない。むしろそのような読み取りを拒否するかのように、断片が流れてゆく。こうした構成の仕方は土方から受け継いだもので、いわば故意に辻褄を外すとでもいおうか。このような事態を本番の舞台で創り上げてゆく、いわば綱渡りのような危うさに立ち会うこと、ここに土方の暗黒舞踏の技術が生まれる時空があるのではないだろうか。荒々しい作りであり、断片的で唐突であることに徹するとでもいうべきだろう。土方との共同作業のなかから生まれ、彼女に与えられた個々の踊りの形を完成させるのではなく、洗練させることでもなく、改めてカオスを引き込むこと、そのための技術こそが土方が生涯をかけて試みたことであり、決して安定した型とならないための原則だったのではないだろうか。 舞踏が国内外で高く評価されるようになってからというもの、多くの舞踏の舞台は一気に完成され、美しく洗練される方向に大きく傾斜している。舞台芸術舞踊として舞踏がその美意識を一層極めるか、それとも完成を拒否し、未踏の領域と対峙し続けるか。その岐路を見極められずに逡巡する舞踏家もいるなかで、今回の小林の舞台は完成などとは程遠いものだった。終盤、聞きなれたビートルズの曲に削岩機の音が重なり、「アメイジング・グレイス」が歌声で流れても、かつての懐かしさなどと閉じ込めておけない静かな熱狂が伝わってくるようだった。(7月6日所見)
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小林嵯峨「幻の字の子供」
文・國吉和子
小林嵯峨は1969年にアスベスト館に入門し、土方巽に師事した。スペースカプセル公演から幻獣社、白桃房公演に1974年まで参加し、芦川羊子、仁村桃子らとともに土方作品の主要なパートを踊った。その間、並行してショーダンサーとして地方巡業もした。小林が白桃房から独立した後、土方は芦川という素材で独自な技法を完成させることになるのだが、小林はその直前に土方から独立している。しかし土方がその技法を具体化してゆく草創期の踊り手の一人であったことは重要で、小林は1970年代初頭のいわば土方の技法が生成される現場を体験した、今や数少なくなってしまった現役の舞踏家といえるだろう。 土方の暗黒舞踏を担った芦川と小林、この二人の体形は対照的だ。小柄で下半身が強靭な芦川は、腰を深く落とし体を小さく折りたたむ踊りを得意としたのに対して、小林は手足も長く、立ち姿に妖艶な魅力があった。一時期、土方のエレガンスは小林が受け継いでいるとまでいわれたものだった。土方の舞踏も担い手が変わればまた、異なった表情をみせる。そしてあれから半世紀も経った現在、土方の踊りは小林の中でどのように伝えられているのだろうか。今回の公演は、暗黒舞踏の基本を改めて確認する作業も含めて、小林がこれまで続けてきた舞踏の成果だと思う。舞台では1970年頃の写真スライドを劇場奥の壁に時折投影するので懐古的な視線も許容され、当時のわけのわからぬ熱気のようなものを体験した世代としては、客観的に見ることが正直、難しかったといわなければならないのだが、こうした懐かしさを凌駕してなお説得力があったのは、小林の体に刻印された土方の技術だった。
冒頭、アートビレッジ公演(1970年)当時のスライドが正面の壁に映し出されると、舞台は無音の内に始まる。ざっくりとした衣裳で板付いたまま、小林は上体、特に頭から肩にかけていくつかの角度を示す。口を開け呆けた状態で、後頭部から首筋、背骨へと流れる線がくっきりと強調されている。顎を緩め、胸を退いて、腹を少し突き出す体勢ですでに腰は落ちている。暗黒舞踏特有の姿勢だが、小林の立ち姿は常に微動しているように見える。それは砂が少しずつ流れ落ちて地形を変える砂漠の風景を連想させる。その後も腕を高く上げる、左右に素早くスライドする、両脚の間にガクンと急に腰を深く落とす、床に倒れて這う等など明確で大胆な動きもみられるものの、こうした一つ一つの動きが何を意味しているか、私にはわからない。しかし一連の動きはなにか体の外にある事柄を表現するために工夫された動きというより、体自体がほかならぬその体に要求されて数珠繋ぎにされているとでもいうべきか。小林はこうした内側からの要求に――その要求の厳密さに全身で忠実であろうとしている。その姿が子供のように無心なのだ。
続いて音が入ってからのシーンでは床を意識した動きや、顔の表情を大きく変化させ、膝を抱え込んで硬く蹲るなど、さまざまな姿態が続いた。かつて土方の指示で生まれた様々な踊り(少女、老婆、貴婦人、狂女など)を、小林は改めて今、辿り踊り直しているのかもしれない。ただ、それらは形骸化した形ではない。今だからこそ生き直すことができるといった熱気のようなものを感じたのは、私の主観にすぎる見方だろうか。幼さと無心、妖しさとエロス、こうした様相が、静かに変貌を続ける姿態をとおして確実に浮彫りにされてゆく。しかも全体がどこか不安定なのだ。言い換えれば、個々の動きの意味というより、全身を支配している不安定な変貌そのものに目が離せないのだ。散漫さに集中している、といった矛盾した言い方しかできない。
続くシーンで小林は髪を解き、赤い着物を前後ろに着て、女の面を後ろ面につけて踊った。背面をあたかも正面のように踊るトリッキーなダンスだ。ヨーロッパ中世の疫病流行期に踊られたダンスを連想した。背後を正面として踊るグロテスクな動きが、病に侵された人の仕草を想起させたとも伝えられるダンス。しかし今、小林の背面ダンスは体の安定感を自ら壊し、体の各部分を通常の機能から一気に解き放つ。差し出された腹部のようにみえる臀部は、ベルメールの関節人形のエロスに変貌する。舞踊家が最も安定した体勢といえば見所に正面を示すこと――古典舞踊の場合を考えるとよくわかるのだが、体の正面を示すことによって、中心が生まれ体全体が安定する。しかし小林は体の正面性を一気に揶揄してしまう。後ろ面の仕掛けもまた、安定領域から外れているのだ。
さらに小林は胸に真綿をつけた少女に変身、ロドリーゴの「アランフェス協奏曲」で現れ、突然下手の台に乗ると、ロック調の音楽で立膝の姐御風情となり、剣菱の一升瓶をラッパ飲みして酒を噴き上げる。ヤクザで潔い、当時の新宿の雰囲気そのままの演技だ。後半、衝撃的だったのは裸の上半身に赤い塗料で喉元からまっすぐ垂直線を引かれて踊るシーン。体の中心線を改めて強調するかのようなこの操作は、まるで赤い棒を飲み込んだかのようだし、小林の体は喉を押さえられて宙づりにされたかのようにも見える。これは土方特有の、言葉の比喩をそのまま体に写し込む手法のひとつなのかもしれない。
これらの姿態はいずれも断片的で唐突に提示される。一貫したイメージの流れとか、ストーリーが読み取れるものではない。むしろそのような読み取りを拒否するかのように、断片が流れてゆく。こうした構成の仕方は土方から受け継いだもので、いわば故意に辻褄を外すとでもいおうか。このような事態を本番の舞台で創り上げてゆく、いわば綱渡りのような危うさに立ち会うこと、ここに土方の暗黒舞踏の技術が生まれる時空があるのではないだろうか。荒々しい作りであり、断片的で唐突であることに徹するとでもいうべきだろう。土方との共同作業のなかから生まれ、彼女に与えられた個々の踊りの形を完成させるのではなく、洗練させることでもなく、改めてカオスを引き込むこと、そのための技術こそが土方が生涯をかけて試みたことであり、決して安定した型とならないための原則だったのではないだろうか。
舞踏が国内外で高く評価されるようになってからというもの、多くの舞踏の舞台は一気に完成され、美しく洗練される方向に大きく傾斜している。舞台芸術舞踊として舞踏がその美意識を一層極めるか、それとも完成を拒否し、未踏の領域と対峙し続けるか。その岐路を見極められずに逡巡する舞踏家もいるなかで、今回の小林の舞台は完成などとは程遠いものだった。終盤、聞きなれたビートルズの曲に削岩機の音が重なり、「アメイジング・グレイス」が歌声で流れても、かつての懐かしさなどと閉じ込めておけない静かな熱狂が伝わってくるようだった。
(7月6日所見)