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TERPSICHORE(テルプシコール)とは?

TERPSICHORE(テルプシコール)

ギリシア神話の女神で、ゼウスとムネーモシュネー(記憶)の間に生まれた九人のムーサ(ミューズ)の一人と云われ、合唱隊の叙情詩と舞踊を司る女神と云われている。初めて裸足で踊ったという伝説の舞踊家、イサドラ・ダンカンが『テルプシコールに捧ぐ』という作品を踊った事も有名。1981年に設立したこのスタジオを「テルプシコール」(フランス読み)と命名したのは、舞踊評論家の故・市川雅氏。

舞台批評

油絵具を塗り重ねるように──上杉満代舞踏ソロ『M』(観劇日=6月19日)
文・北里義之

  洗練を積み重ね、切り詰められた要素だけでできあがった2景のステージには、前半と後半にひとりずつ、まるで泰西名画のなかから抜け出てきたような女性が登場した。ひとりはモネの「日傘をさす女性」を思わせるような日傘を持った昼の女、もうひとりは頭からすっぽりとかぶったヴェールで顔や身体を包んだ夜の女。踊り手をクローズアップすることのない曽我傑の照明、白い衣裳、白い化粧、露出される白い胸、細かい紙を集めて作ったステージ中央の白いサークル、白いヴェールなど、空間はなにも描かれていないカンバスのように全体が白っぽい印象のなかにあり、まるで絵画のなかに閉じこめられてしまったかのように現実感がなくなってゆく。公演の最後の時間帯、踊り手が半身を乗り出すようにして下手と上手の観客席に迫ったとき、これは幻想ではなく、舞踏公演なのだと我にかえるような具合。特に公演の前半、たっぷりと時間をかけて、細かく、丹念に表情を移していく動きは、一瞬ごとに断ち切られているようで、それはちょうど一枚の下絵のうえに何度も何度も油絵具の色を塗り重ねていく絵筆の動きに似ていた。

 動きがなんの目的ももっていないように見えるのは、日傘、紙のサークル、背中で結び目をほどかれほおずきのように頭を包む衣装といったいくつかの要素が、ひとつに結びつけられることなく、踊り手の自分語りを含むあらゆる物語、意味を描き出すことがないからだと思う。それぞれの要素は要素のままバラバラな状態に捨て置かれ、もちろんステージの立ち位置などにはなにがしかの構成があるのだろうが、見たところ動きは気まぐれに方向を変えていくようにしか見えない。放置された空間は穴だらけの状態で、身体はどこにでも動いていけるはずなのだが、上杉はひとつところで滞留し、そのためステージにはたくさんの余白が生まれていた。

 このことを感覚的につかまえるために、『M』の雰囲気、特にその前半部分を、ふたつのシーンでやや詳細に追ってみることにしたい。

 冒頭の場面、ドイツ語の歌曲が流れるなか、折り畳んだ黒いパラソルを左手に携え、客席上手コーナーに身体を向けて楽屋口に座った上杉は、中央の白いサークルに視線を向けたまま動かない。しばらくすると下を向いて、床のうえに視線を這わせる。遠見には、かたわらのパラソルの柄のあたりを見ているように見える。首を前に落として戻す。右手は右膝のあたり。背筋が伸びて、首がまっすぐに立つ。音楽が終わると、かたわらのパラソルを床のうえに滑らせながら前にまわしてゆっくりと開く。中途半端な開き方は、どうやらそうしたデザインの傘のようだ。口笛で短いメロディをくりかえし吹きつづける。ひろげた傘のうしろから顔をのぞかせてから、少しだけ腰をあげて居ずまいをただすと、まるで細い紐で天井から引かれるようにパラソルが上にあがっていく。両手で傘の柄にすがりつくような格好をした上杉は、そろえた両膝で中腰の姿勢をとる。口笛はずっと吹かれている。パラソルの黒が嘘にみえるほど世界が白い。すべてが白の印象のなかにある。これがゴングのような金属音が鳴りはじめ、舞踏家の身体が空間をひろげていく直前の場面。

 あるいは、ホリゾント壁に沿ってセンターに歩き、決然とした意志をあらわしながら、そこから細かい紙片を集めた中央のサークルへと歩み出ていく場面。サークルの前にたたずむ上杉の足指には、赤いペディキュアが塗られていた。右足の足指が、円周の紙片をもぞもぞと押しこむようにしてサークルに侵入していく一方、左足は高く持ちあげられ、サークルのうえに静かに置かれると、まるで均すように紙片に触れてから、もう一度うえに引きあげられ、今度は床まで足裏をつき抜けて紙片が踏みにじられ、蹴散らされていく。左膝を床につき、パラソルをぐるっとまわして自分の姿を隠すと、右手で紙片をつかみあげ、まるで水浴びでもするかのようにはらはらと右肩に注いだ。傘ごと回転して背中向きになってすわった上杉は、ドスンドスンと大きな音をさせながら尻を床に落とす。黒い傘の裏地が銀色に輝く。これはどんな物語なのか、ひとつひとつの動きを支える意味の文脈が見てとれないぶん、身体そのものが前面化し、これらのすべを支えるのが舞踏家の存在以外にはないことが際立ってくる。

 身体のわずかな向きの違い、はっきりとものを見るというのではないうつろな視線の移り、掲げられるパラソルの高さの微妙な変化、紙片を踏みしだく足裏と床の関係性など、表情の細部をつめるようにして塗り重ねられていくミニマルな動きは、見るものの感覚をこれ以上なく密なものにしていくが、同時に、時間をホリゾンタルな物語的=単線的なものから、深さを感じさせるような重層的なものへと変質させることにもなり、黒いパラソル、白い胸といったような記号的なものを越えて、(まるで油絵具を塗り重ねるように)表情が少しずつ厚みをもちはじめるという順番で、ようやくそこにひとつの身体が出現してくるのだった。その意味では、観客の前に登場する泰西名画から抜け出してきたような女性たちは、「上杉満代」を見たいという視線の欲望を、この見えざる身体の場所につなぎとめる仮の形式にすぎないのかもしれない。上杉満代の舞踏を観る観客の目には、まだなにも描かれていないカンバスのような空白状態の身体と、カンバスのうえに置かれた油絵具そのものの具体性、生々しさを備えた身体とが、同時に見えているのではないだろうか。見えない身体に見える身体が寄り添っている。

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