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ギリシア神話の女神で、ゼウスとムネーモシュネー(記憶)の間に生まれた九人のムーサ(ミューズ)の一人と云われ、合唱隊の叙情詩と舞踊を司る女神と云われている。初めて裸足で踊ったという伝説の舞踊家、イサドラ・ダンカンが『テルプシコールに捧ぐ』という作品を踊った事も有名。1981年に設立したこのスタジオを「テルプシコール」(フランス読み)と命名したのは、舞踊評論家の故・市川雅氏。
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2020年
上杉満代 舞踏公演「迷宮伝説 2020」文・國吉和子
コロナ禍のためにこの四月以来長らく休業を余儀なくされていたテルプシコールの、待ちに待った再開第一弾である。そして、同様にこの作品もまた、本番直前まで煮詰められたまま五ヶ月間、生き埋めにされ、お蔭で思わぬ醸成期間となって、改めての幕開きとなった。
それにしても、である。コロナで宙吊りとなったこの膨大な時間、日々発表される感染者数という抽象的な現実と、息苦しいマスク越しの現実とのギャップを、予防という名目で強要される奇妙な日常。にもかかわらず、どのように鎧われていても、体こそが無防備に晒されているという感覚。地崩れのようにして弱者が冷酷に淘汰されてゆく有様を目の当たりにしながら、こんな時、舞踏家はなにを感じ、どのように生きているのだろうと思う。 世の中の事態は今も少しも変わっていない。そのような時、上杉のこの作品を見て、私は凄まじいまでに原点に戻ろうとするエネルギーを感じた。エネルギーというより、むしろ欲望と言った方が適切かもしれない。体がそこにあることの責任というか根拠を、このテルプシコールの空間を相手に示そうとしているのだ。そのためにはただそこに立つだけではだめだ。技法無く、無手勝流にやみくもに立ち向かっても、この慎ましくも強固なテルプシコールの空間に惨敗するだけだ。今回の舞台は、このことをとても簡潔に、しかも強烈に明かしてくれたように思われた。 舞台は極めてシンプルなもので、グレイと黒の色調で統一した抽象絵画のような空間に、唯一中央の壁に細幅の女ものの帯を一筋垂直に流している。上杉のたぎり立つようなエネルギーと拮抗し得たのは、こうしたテルプシコールの劇場空間であった。 これまでソロ公演を専らとしていた上杉には珍しく、女性舞踏手(高松真樹子、山本睦)2人との共演である。冒頭、舞台中央奥の上杉、その左右に二人が配置された。 そして聞こえてきたのは、ウェーバーの「舞踏への招待」、あのニジンスキーのバレエ「薔薇の精」でおなじみの曲だ。バレエでは夢み心地でうたた寝している少女と薔薇の精の、うっとり官能的でとりとめのない情景が展開する。甘く誘うようなワルツ。冒頭、この舞台の薄明に包まれたような3人に大きな動きはないが、私の頭の中では、すでにイメージが勝手に踊り始めている。冒頭から魅了されてしまいそうだ。同じように夢の中なのだろうか、二人の舞踏手が無意識に動く手先の醸し出す詩情を支える一対二、上杉を中心とした三角形の構図は安定している。 これは土方巽が旧アスベスト館で創作した一連の作品、芦川羊子を中心とした作品の構図を連想させる。板付きでもっとも安定した構図である。土方の板付きが暴力的に時間を寸断させているのに対して、上杉の構図には静かな回復がある。音楽の所為かもしれない。 高松と山本にはそれぞれ対等に踊るシーンがあり、二人の質の違いが作品に濃淡をつけている。二人に共通していたことは、すべてをゼロに戻し、今その空間と精確な距離と角度をとること、この測量は数値ではなく、有機的な彼女達それぞれの体を構成している身体的単位で計測すること。これは簡単にできることではない。そしてそのために必要とあれば、大野一雄系の舞踏にはありえなかったライオンのポーズ(四つん這いになる姿勢)など、むしろ素直に取り入れている。必要になったのだ。二人は誠実な集中力でもってこの課題に向き合っていた。 このライオンのポーズのように、舞踏がこれまで六十年近くの間に見出してきた体の技法は、その独自性とともに互いに牽制し合いながら育まれてきた。こうした舞踏の特権的動きが、基本に立ち返ろうとする意思のもとに、改めて検証されているといえるのかもしれない。 今回の上杉の会で特に感じた技法が、一分の隙も許さず体をそこに置く技法だ。筋肉や筋も妨げになる。観念もイメージも戸惑わせる。骨にまで自らの存在を還元させて(抽象化して)、空間と渡り合おうとすること、ここに上杉の舞踏が成立しているといえるのではないだろうか。一見、甘美な音、ヴェールや曇りガラス越しに見せるようなやわらかい衣装、こうしたものや事は、さまざまなイメージを招き寄せてしまいがちだったし、正直、それはまた見る側の快楽でもあった。しかし今回は違う。 この骨を基準として技法を立ち上げたことによって、驚くべき水脈を手繰り寄せたように思った。これは私の錯覚かもしれない。しかし、上杉の技法が時空を超えて、一瞬、古典的身体として現れたシーンがあって、驚いたのだ。それは終盤、上杉が黒い細見のドレスで登場し、黒い洋風の扇子(バレエ「ドン・キホーテ」のキトリがもって踊るような扇子)をもって舞うところだ。この動きは明らかに能の仕舞の動きに酷似している。一瞬私は、なんという倒錯だろう、と思った。しかしよく見ると、彼女の体は動きの芯だけになっているとしか言いようのない在り方で、そこに在ったということなのだ。この動きの芯だけになる状態(抽象化)が、能舞と共鳴した瞬間だった。 舞踏は古典舞踊とはなんの関係も無いように思われているが、実は舞踏ほど古典と近いものはないと思う。言いかえれば、舞踏だからこそ、古典が生まれる瞬間を共有できるのではないだろうかということなのだ。これは舞踏が定型化することでは決してない。現在古典といわれている芸能が、かつて体験したであろう、体の技法が生まれる沃野に、舞踏だからこそ立てるのではないだろうか。上杉の扇子の舞、その抽象化を支えていたのが、骨の技法とでもいうべき技法だった。 他の二人は、丸いサングラスを付けて(表情を隠して)対称的に片膝立てて座り、狛犬のように忠実に控えている。やがて、上杉は扇の舞の後、舞台の中央にゆっくりと仰向きに倒れていく。女は死んだのだ、というか、上杉は自らも含めて、過去から否応なく続く連鎖のようなもの、例えば女系が引き受ける業のようなものを、今ここで穏やかにしかも確固として葬った、と思わせるシーンである。壁に流した女ものの帯が照らし出されることで、このシーンの意味が示唆されるようだった。 大野一雄はかつて「ディヴィーヌ」を埋葬し、その亡骸から少女になって無心に復活したが、再び立ち上がった上杉は頭を覆っていたネットを外し、こちらを凝視するような視線を向けた。二人の従者もパッとサングラスを外し、このタイミングで、今回の舞台が終わった。最後の瞬間は、まるで現実に引き戻すかのような終わり方であった。 見ること、はっきりと視点を定めることによって、明らかに世界は変貌するだろうが、果たして以前のような豊穣な広がりを約束できるのだろうか。観客へ問いかけているように思われた。 作品としてまとめるには、終わりがなければならないのだが、この最後はなにかあまりに唐突な感があって、物足りなさを感じたのは私だけだろうか。あっけなさは潔さでもあるのだが。しかし、ともかく上杉は今回の作品で、残忍なまでの一刀を自身に振り下ろしたのだと思う。 改めて思うのは、舞踏はあくまでも個人的な世界を基層にもって成立しているのだということ、芸術は皆、個人から展開しているものだといえるのだが、その個人的なことからいかに普遍的な時空へと昇華してゆこうとするかは、あくなき欲望なのだということを改めて感じる。上杉は今後、これまで以上に貪欲に自在になるだろう。 身体が迷宮なら、骨の基本はアリアドーネの糸となるだろう。
過去の舞台批評
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2020年
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上杉満代 舞踏公演「迷宮伝説 2020」
文・國吉和子
コロナ禍のためにこの四月以来長らく休業を余儀なくされていたテルプシコールの、待ちに待った再開第一弾である。そして、同様にこの作品もまた、本番直前まで煮詰められたまま五ヶ月間、生き埋めにされ、お蔭で思わぬ醸成期間となって、改めての幕開きとなった。
それにしても、である。コロナで宙吊りとなったこの膨大な時間、日々発表される感染者数という抽象的な現実と、息苦しいマスク越しの現実とのギャップを、予防という名目で強要される奇妙な日常。にもかかわらず、どのように鎧われていても、体こそが無防備に晒されているという感覚。地崩れのようにして弱者が冷酷に淘汰されてゆく有様を目の当たりにしながら、こんな時、舞踏家はなにを感じ、どのように生きているのだろうと思う。
世の中の事態は今も少しも変わっていない。そのような時、上杉のこの作品を見て、私は凄まじいまでに原点に戻ろうとするエネルギーを感じた。エネルギーというより、むしろ欲望と言った方が適切かもしれない。体がそこにあることの責任というか根拠を、このテルプシコールの空間を相手に示そうとしているのだ。そのためにはただそこに立つだけではだめだ。技法無く、無手勝流にやみくもに立ち向かっても、この慎ましくも強固なテルプシコールの空間に惨敗するだけだ。今回の舞台は、このことをとても簡潔に、しかも強烈に明かしてくれたように思われた。
舞台は極めてシンプルなもので、グレイと黒の色調で統一した抽象絵画のような空間に、唯一中央の壁に細幅の女ものの帯を一筋垂直に流している。上杉のたぎり立つようなエネルギーと拮抗し得たのは、こうしたテルプシコールの劇場空間であった。
これまでソロ公演を専らとしていた上杉には珍しく、女性舞踏手(高松真樹子、山本睦)2人との共演である。冒頭、舞台中央奥の上杉、その左右に二人が配置された。
そして聞こえてきたのは、ウェーバーの「舞踏への招待」、あのニジンスキーのバレエ「薔薇の精」でおなじみの曲だ。バレエでは夢み心地でうたた寝している少女と薔薇の精の、うっとり官能的でとりとめのない情景が展開する。甘く誘うようなワルツ。冒頭、この舞台の薄明に包まれたような3人に大きな動きはないが、私の頭の中では、すでにイメージが勝手に踊り始めている。冒頭から魅了されてしまいそうだ。同じように夢の中なのだろうか、二人の舞踏手が無意識に動く手先の醸し出す詩情を支える一対二、上杉を中心とした三角形の構図は安定している。
これは土方巽が旧アスベスト館で創作した一連の作品、芦川羊子を中心とした作品の構図を連想させる。板付きでもっとも安定した構図である。土方の板付きが暴力的に時間を寸断させているのに対して、上杉の構図には静かな回復がある。音楽の所為かもしれない。
高松と山本にはそれぞれ対等に踊るシーンがあり、二人の質の違いが作品に濃淡をつけている。二人に共通していたことは、すべてをゼロに戻し、今その空間と精確な距離と角度をとること、この測量は数値ではなく、有機的な彼女達それぞれの体を構成している身体的単位で計測すること。これは簡単にできることではない。そしてそのために必要とあれば、大野一雄系の舞踏にはありえなかったライオンのポーズ(四つん這いになる姿勢)など、むしろ素直に取り入れている。必要になったのだ。二人は誠実な集中力でもってこの課題に向き合っていた。
このライオンのポーズのように、舞踏がこれまで六十年近くの間に見出してきた体の技法は、その独自性とともに互いに牽制し合いながら育まれてきた。こうした舞踏の特権的動きが、基本に立ち返ろうとする意思のもとに、改めて検証されているといえるのかもしれない。
今回の上杉の会で特に感じた技法が、一分の隙も許さず体をそこに置く技法だ。筋肉や筋も妨げになる。観念もイメージも戸惑わせる。骨にまで自らの存在を還元させて(抽象化して)、空間と渡り合おうとすること、ここに上杉の舞踏が成立しているといえるのではないだろうか。一見、甘美な音、ヴェールや曇りガラス越しに見せるようなやわらかい衣装、こうしたものや事は、さまざまなイメージを招き寄せてしまいがちだったし、正直、それはまた見る側の快楽でもあった。しかし今回は違う。
この骨を基準として技法を立ち上げたことによって、驚くべき水脈を手繰り寄せたように思った。これは私の錯覚かもしれない。しかし、上杉の技法が時空を超えて、一瞬、古典的身体として現れたシーンがあって、驚いたのだ。それは終盤、上杉が黒い細見のドレスで登場し、黒い洋風の扇子(バレエ「ドン・キホーテ」のキトリがもって踊るような扇子)をもって舞うところだ。この動きは明らかに能の仕舞の動きに酷似している。一瞬私は、なんという倒錯だろう、と思った。しかしよく見ると、彼女の体は動きの芯だけになっているとしか言いようのない在り方で、そこに在ったということなのだ。この動きの芯だけになる状態(抽象化)が、能舞と共鳴した瞬間だった。
舞踏は古典舞踊とはなんの関係も無いように思われているが、実は舞踏ほど古典と近いものはないと思う。言いかえれば、舞踏だからこそ、古典が生まれる瞬間を共有できるのではないだろうかということなのだ。これは舞踏が定型化することでは決してない。現在古典といわれている芸能が、かつて体験したであろう、体の技法が生まれる沃野に、舞踏だからこそ立てるのではないだろうか。上杉の扇子の舞、その抽象化を支えていたのが、骨の技法とでもいうべき技法だった。
他の二人は、丸いサングラスを付けて(表情を隠して)対称的に片膝立てて座り、狛犬のように忠実に控えている。やがて、上杉は扇の舞の後、舞台の中央にゆっくりと仰向きに倒れていく。女は死んだのだ、というか、上杉は自らも含めて、過去から否応なく続く連鎖のようなもの、例えば女系が引き受ける業のようなものを、今ここで穏やかにしかも確固として葬った、と思わせるシーンである。壁に流した女ものの帯が照らし出されることで、このシーンの意味が示唆されるようだった。
大野一雄はかつて「ディヴィーヌ」を埋葬し、その亡骸から少女になって無心に復活したが、再び立ち上がった上杉は頭を覆っていたネットを外し、こちらを凝視するような視線を向けた。二人の従者もパッとサングラスを外し、このタイミングで、今回の舞台が終わった。最後の瞬間は、まるで現実に引き戻すかのような終わり方であった。
見ること、はっきりと視点を定めることによって、明らかに世界は変貌するだろうが、果たして以前のような豊穣な広がりを約束できるのだろうか。観客へ問いかけているように思われた。
作品としてまとめるには、終わりがなければならないのだが、この最後はなにかあまりに唐突な感があって、物足りなさを感じたのは私だけだろうか。あっけなさは潔さでもあるのだが。しかし、ともかく上杉は今回の作品で、残忍なまでの一刀を自身に振り下ろしたのだと思う。
改めて思うのは、舞踏はあくまでも個人的な世界を基層にもって成立しているのだということ、芸術は皆、個人から展開しているものだといえるのだが、その個人的なことからいかに普遍的な時空へと昇華してゆこうとするかは、あくなき欲望なのだということを改めて感じる。上杉は今後、これまで以上に貪欲に自在になるだろう。
身体が迷宮なら、骨の基本はアリアドーネの糸となるだろう。